2018年07月11日【第127回】日本は反省しない国なのか

 麻原彰晃らオウム真理教の死刑囚7人の刑が7月6日、執行された。1995年の地下鉄サリン事件から数えても23年が過ぎ、いつ死刑が執行されてもおかしくはなかった一方で、麻原本人が口を閉ざしてからというもの、事件の本質や経緯はとうとう分からずじまい。やりきれなさと煮え切れなさ、先行きの不透明さばかりが募るものとなった。オウム事件は犯罪当事者に断罪が下されただけで、日本は今後も長く重い十字架を背負って引き継がれるといえよう。

 すでに多くのメディアが喧伝している一つは、刑執行による「神格化」である。日本とともに第二次大戦の中心人物となった独アドルフ・ヒトラーや、露ヨシフ・スターリンを見るまでもなく、歴史上、悪名を残した独裁者たちはその死後に「伝説」をつくり出している。さらに長い時間を経て、再評価する者も現れ、ネオナチと呼ばれる独裁国家崇拝の動きにつながっていく。すべて首謀者の死を起点にして崇拝や神格化が生まれることを忘れてはなるまい。

 もう一つはオウム真理教が起こした数々の無差別殺人が、何を目的としたものだったのか――同教団の幹部だった者たちが裁判の過程で明らかにしているものの、そのコメントには温度差があり、最終決断を下した麻原が何も話さなかったことから、真相の解明には届かなかった。

 麻原本人への死刑が確定したのは2006年9月のこと。執行までの12年間とはなんのための時間だったのか。地下鉄サリン事件がオウム真理教によって引き起こされ、その首謀者が麻原であったことは確かだとしても、事件を生みだす素地が日本という国にあったことを改めて、思いだすべきだろう。歴史は繰り返される――日本がこのまま検証・反省しない国にならないよう、祈るばかりである。